FISPA便り「新井淳一さんの履歴書と夢」

 群馬県の県紙、上毛新聞に7月末から30回の連載でテキスタイル・プランナー、新井淳一さんの履歴書と言える「心の譜」が掲載されました。新井さんの誕生から今日までの歩みを振り返ると、創造というファッションビジネスには不可欠な行為を不断に続けるために必要な要素は「夢」であることを感じさせるものでした。

 新井さんは、満州事変の翌年の昭和7年(1932年)、桐生市の機屋に生まれました。桐生高校卒業後、家業の機屋で織物作りを始めましたが、その後、日本の繊維業界に既製服時代が到来する中で次々と創造的なテキスタイルを開発し、アパレル業界に提供しました。

 その頃の織物の流通は、産地の買継商、東京の問屋を通すものでしたが、新井さんは、そうした多段階の構造にやきもきしていました。新しいものを直接デザイナーに使ってもらいたいと思ったのです。

 ちょうどその頃、1970年代には、三宅一生、山本寛斎、川久保玲などのファッションデザイナーがパリコレクションに進出するようになりました。そうしたデザイナーの作品に新井さんの布が使用されるようになったのです。

 新井さんは日本より海外での知名度が高い、と評されます。そんな「ジュンイチ・アライ」の名が、世界に知られるようになったのは、1983年、ワシントンポスト紙のニナ・ハイドさんという有名な記者が東京のホテルオークラからハイヤーで「桐生に行って」と新井さんを訪ね、そのインタビュー記事を書いてからのことだそうです。

 その後、新井さんは英国王立芸術大学院から名誉博士号を授与される一方、昨年12月には文化庁からも表彰されました。文化庁がテキスタイルの功績で表彰するのは新井さんが第一号です。

 しかし、新井さんは創業した会社が倒産したこともあります。2001年には肺がん、胃がんが見つかりました。間もなく復帰しましたが、布づくりの喜びの裏には辛い経験もあったのです。

 そんな新井さんとの雑談の折り、もう20年以上も前のことですが、筆者はこんなことを言われたことがあります。「夢は見た」と言うべきではない。「夢は見る」と言うべきだよ。

 新井さんは、海外では「ドリーム・ウィーバー」(夢を紡ぐ人)と紹介されるそうです。連載の最終回は「織物の道に終わりはない」と結んでいます。

(聖生清重)