FISPA便り「盆栽という世代を超えた時間の塊」

 「貴重盆栽」という言葉をご存知でしょうか。いまや、世界的にブームだという盆栽。世界でも「BONSAI」で通用するそうで、埼玉県にはさいたま大宮盆栽美術館があるのですから、それはれっきとしたアート作品でもあるのです。何をいまさら、と言われそうですが、先日、ちょっとしたきっかけで東京都美術館で開かれている「国風盆栽展」(前期)を見てきました。
 

  驚愕という言葉が、その印象です。韓国、台湾、スペインからの各1点と全国から出品された選りすぐりの170点が展示されていましたが、どの作品をとっても「ここまでくるのに、どれだけの時間がかかっているのだろう」と驚くばかりでした。盆栽は、それだけで「宇宙」を表現している、と言われますが、筆者は「宇宙」が形成されるまでの、気が遠くなるような時間の重みに押しつぶされそうになりました。

 「真柏」の盆栽。高さはせいぜい1メールか1メートル半。緑の短針のような葉は天井に雲のように乗っている。太い根元から葉まですくっと伸びた幹の大半は真っ白に輝いている。その部分は枯れ、残りのわずかな樹皮で水分を吸収して生きていることがわかる。

 盆栽に詳しそうな方が、連れに説明していたので、しばし、耳を傾けたところ、こんな説明が聞こえました。「これは、500年を超えているな」。真柏や五葉松、かえで、椿、もみじ、けやき等。500年以上かかっているということは、出品した方は500年も生きられませんから、その前に何人かが育て、管理して引き継いできたのです。

 出品作品の何点かには「貴重盆栽」の札が置いておりました。「何世代にもわたり、多くの人々の手によって芸術の域にまで高められた文化的にも貴重な盆栽を厳正な審査で認定して、その保存に万全を期している」のだそうです。後日、貴重盆栽を保存している方のご家族に聞いたのですが、貴重盆栽を持っていると旅行にも行けないとのことでした。

 たかが何々、されど何々、という言い方がありますが、何百年にもわたって制作されてきた盆栽は、「たかが」はもちろん「されど」と言っても失礼な気分になりました。まさに「驚愕」でした。生きものなのに気が遠くなるような時間が蓄積された盆栽。育てた盆栽を、後世に託した人はどんな気持ちで日々、目の前の盆栽に向き合っていたのでしょう。同展(後期)は今月16日(金)まで。                           

(聖生清重)