FISPA便り「変換ミスの楽しみ」
電話が一般家庭まで普及していなかった時代は、電報が緊急な要件を伝える重要な手段でした。その頃のカタカナ電文にこんなものがありました。「カネオクレタノム」。東京に下宿している大学生が、地方に住む親に「お金」を、至急送ってくれ、と頼んだものです。ところが、電報を受け取った親は「(誰かが)金をくれた(ので)飲む」と理解しました。
息子の大学生は、電報代を安くあげるために、簡潔な電文を工夫したのですが、そうは受け取ってもらえなかった、という笑話です。誰もが携帯電話を持つ現代では、電報は社長就任や叙勲を祝す祝電か、亡くなった方を悼む弔電が大半のようです。電報の打ち方さえ知らない人も増えているのではないでしょうか。
何故、こんな話を持ち出したかと言いますと、パソコンやスマホでのメールのやり取りが当たり前になって、ふと、気がつくと漢字の書き方を忘れてしまったことに気づくことが増えたからです。お礼の手紙を直筆で書こうと、便せんに向かい書きだしたものの、書きたい漢字の書き方がわからない。やむなく、辞書をひく。あるいは、その漢字の使用を諦めた経験がある方は少なくないのではないでしょうか。
その一方で、メールには別の楽しみがあります。変換ミスです。例えば、筆者の場合、「聖生(せいりゅう)」が正しい名字なのですが、これまでに「清流」「青柳」「清龍」「聖流」「青龍」といった宛名の手紙やメールをもらったことがあります。ウソだろう、と思われるかも知れませんが事実です。
変換ミスの名字の方が「カッコイイ」かも知れません。てなわけで、変換ミスを楽しむようになりました。
文字にまつわるミスですが、かつて、筆者は大失敗したことがあります。繊維専門紙記者の時、当時は鉛の活字を組んで新聞を編集していたので、変換ミスではなく、校正ミスですが、大チョンボをおかしました。「メンズに挑戦」とすべきところを「メンスに排戦」とやってしまったのです。「ズ」を「ス」、「挑」を「排」に間違えていたことを見逃してしまったのです。
忘れられない大チョンボ以来、特にメールに依存するようになってからは、変換ミスに最大限の注意を払っています。が、その一方では、受け取るメールの変換ミスを見つけては、内心、ニヤニヤしています。
(聖生清重)