FISPA便り「国家とユニフォーム」

 「暑い」を通り越して「熱い」、いや「アッチー」の方がよりふさわしい2015年夏。このコラムを読んでくださる皆様はいかがお過ごしでしょうか。恒例の旧盆中の夏季休暇には、家族で海に山に繰り出した方、故郷に帰りご無沙汰している父母に孝行し、先祖の墓に線香を手向けた方、冷房を効かせた部屋で読書三昧、その合間にはTVでの高校野球観戦の方もいらっしゃったことでしょう。

 戦後70年の今年の夏。どことなく気持ちが落ち着かない空気が漂っているように感じます。それぞれが、70年前の戦争の記憶や歴史に思いを馳せる。とりわけ、今夏は安部首相談話を熟読しながら日本という国の過去、現在、未来を考えたのではないでしょうか。

 そんなことを考えていた時、ユニフォーム(制服)の歴史を知りました。目下、SCM推進協議会でもユニフォーム業界の取引適正化の作業を進めていますが、そのユニフォームが定められたのは明治元年にさかのぼります。明治維新の大変革の時代。武家は従来のハカマもあれば、洋式訓練を受けた人たちはズボンをはいている。新政府の誕生で官吏が大勢生まれましたが、こちらも何を着て良いのかわからない。そう、仕事服は無政府状態だったのです。

 そこで、明治元年(1868)8月23日に従来の礼服を廃し、同5年から大礼服および礼服を西洋服としました。さらに17年には高級官吏の礼服、通常礼服、通常服の三種類が定められ、以後、軍人、警察官、鉄道員、郵便局員といった職業の人々の服装が出来上がりました。学校もそれにならいましたので。明治中期には都市部では「制服国家」の様相を呈するようになったそうです。

 この話は、ちょっと時間が空いた際、雑学を仕入れるのに便利な「一年諸事雑記帳」(加藤秀俊、文春文庫)に教えられたものです。

 明治時代の近代化に当たり、洋服が重要な役割を果たしたことは、かつて文化学園服飾博物館で見た展覧会で知っていましたが、改めて、近代国家形成にユニフォームが果たした枠割の大きさを思うと、同じユニフォームでも一層、愛着が湧いてきます。国家を考えるということは、同時にユニフォームを考えること、といってはいささかオーバーかも知れませんが。    

(聖生清重)