FISPA便り「沙也可がつなぐ日韓友好」

 韓国第3の都市、大邱市の中心部から東南へ約25㎞離れた友鹿里(ウロクリ)という山村に豊臣時代の日本人武将の末裔250世帯が住んでいることをご存知でしょうか。韓国では悪名高い豊臣秀吉の朝鮮侵攻(1592年の文禄の役)に際し、加藤清正の右先鋒将として朝鮮に出兵しましたが、釜山上陸後すぐに3,000人の部下とともに朝鮮に帰化した人物の子孫達です。 

 その武将の名は金忠善(日本名は沙也可)。沙也可は若いころから朝鮮の文化と人倫思想を敬愛していたため、「礼儀の国を侵攻することはできない」として、時に弱冠22歳で朝鮮に帰化したのです。その後、沙也可は火縄銃の製法を伝授する一方、朝鮮国内の争乱を平定した功が認められ、時の宣祖大王から「金忠善」という名が与えられたそうです。 

 金忠善は、5男1女をもうけました。以来、金氏の血統は今日まで16代続き、子孫の数は韓国全土で7,000-8,000人にのぼるといいます。大邱近くの友鹿里に住む人々は歴史の荒波にまみれながら、常に日本人であることを隠さず、誇りをもって生きてきた沙也可の直系なのです。 

 友鹿里には、金将軍となった沙也可の位牌を祀る「鹿洞書院」があり、慕夏堂(モハダン、金将軍の号)文集、親筆、火縄銃などが展示されています。金忠善研究会顧問の崔鐘大さんによると、最近は日本人観光客の訪問も増えているそうです。 

 日本人の誇りをもって朝鮮で生き、同地の土となった沙也可ですが、実は、その出自などの実像はよくわかっていません。紀州の雑賀衆の鉄砲隊長だったとの説が有力のようで、鹿洞書院のビデオでは和歌山県選出の自民党の有力議員が「和歌山と大邱、そして日韓友好」を強調していました。

 友鹿里に住む日本人の末裔も、約100人は高齢者だそうです。秋の気配が友鹿里一帯を覆う去る10月に訪ねた際にお聞きした歴史の断片です。日韓友好と沙也可の子孫であるお年寄りの方々の長寿を念じながら、紅葉した木々の間を清流が流れる詩情豊かな地名の友鹿里を後にしました。

(聖生清重)