FISPA便り「稼ぎ」と「仕事」

まさかやってくるとは思わなかった電力危機を意識しながら過ごした11年の暑い夏がようやく終わり、今年もまた実りの秋がやってきました。東日本大震災、原発事故で被災した農家の苦渋に思いを馳せながらも、そこは秋、新米や秋刀魚、栗などの秋の味覚を存分に楽しみたいものです。

「秋」と言えば、とっさに「実りの秋」とのフレーズが思い浮かびます。厳しい冬の後にやってきた春に種を蒔いたり、苗を植え付けたり、果樹の土に肥料を施したり、炎天下には雑草を取り除いて生長をうながし、そうして迎えた収穫の季節である「秋」。そんな日本人の、いや北半球に住む人間の営みの区切りにある秋だからこそ「実り」には何かしらの豊かさ、確かな達成感、そこはかとない自然に対する感謝の念を覚えます。

そんな「実りの秋」をもう一歩踏み込んで考えてみると、実りまでには長い時間と人間の丹精込めた働きがあることに気づきます。子供を育てるように気を配り、肉体労働をいとわない。そうなのです。実りの秋は、汗水たらした仕事の成果によってこそもたらされるものだと言えるでしょう。 

仕事と言えば、東京と群馬県上野村の二重生活をしている在野の哲学者、内山節の「仕事と稼ぎ」の考察に大いに考えさせられたことがあります。氏は、著書の「自然と人間の哲学」(岩波書店)でこう言っています。「山村の村人は『稼ぎ』と『仕事』を使い分けている。『稼ぎ』はお金のためにする賃労働であり、『仕事』は山の木を育てたり、作業道を修理したり、畑を耕したりすること」。前者はしないのですむならその方がいい仕事であり、後者は山村で暮らす以上、行わなければ暮らしや村や自然が崩壊してしまう行為だ、と。 

現実的には、現代の村人は「稼ぎ」と「仕事」を併用しています。しかし、都会で働く大勢のサラリーパーソン、経営者、自営業者も時には「自分の仕事」は内山氏が言う「単なる稼ぎ」に終わっていないかどうか、考えてみたらいかがでしょう。「実りの秋」を実感するために。

本来、内山氏の分析はウォール街の何十億円もの報酬を手にして平然としている「強欲者」にこそ聞かせたいのですが…。

(聖生清重)