FISPA便り「世界遺産の明暗」
明治維新後の日本の近代化に貢献した官営富岡製糸場(群馬県富岡市)を中心とした「富岡製糸場と絹産業遺産群」。政府が世界文化遺産候補としてユネスコへの推薦を決め、登録運動が盛りあがっている中、去る10月上旬、富岡製糸場創業140年を記念した講演、コンサート、企画展など多彩な催しが開かれました。
富岡製糸場の創業は明治5年(1872年)。生糸輸出で外貨を稼ぎ、近代国家を形成しようとの明治政府の殖産興業政策の旗手としての期待を一身に浴びての創業でした。模範工場である富岡製糸場の稼働によって、近代的な製糸業を全国に普及させる役割を担っての船出でした。
実は、富岡製糸場は、操業の21年後に民営化されました。その間、一度として黒字になったことはありません。しかし、富岡から全国に波及した機械設備・技術は、日本の近代化に欠かせない貴重な外貨をもたらす一方、近代産業の先駆けとしての重責も果たしました。生糸は開港以来、昭和初期まで日本最大の輸出商品でした。
それから140年の時が経過した現在、日本の製糸業は消滅の危機に直面しています。現在、日本の製糸工場数は、器械製糸はわずか1工場。小規模工場を含めても7工場にすぎません。時代の変化に暗澹たる思いがします。原料繭を生産する養蚕農家数も現状600戸強。昭和初期には220万戸もあったのです。従事者の高齢化もあって、風前の灯の状況にあるのです。
消滅の危機にある日本の蚕糸絹業に対して、政府は「提携システム」という仕組みで「蚕糸絹業の存続・発展」に少なくない予算を投じ、その努力は現在も続いていますが、先行きは楽観できるものではありません。
「世界遺産登録」という「明」と「消滅の危機」という「暗」。歴史は、残酷とも言える現実を突き付けています。
日本の民族衣装である着物の素材である絹。日本の絹の消滅は、日本の伝統文化の消滅そのものです。この問題は、単なる郷愁とは思えません。
(聖生清重)