FISPA便り「小さな体育館の内壁に立てられたマット」

 東京オリンピック2020は、連日、日本選手の活躍が伝えられています。コロナ感染者数のニュースや政府の対策が気になるものの、「ステイホームのTV観戦」を楽しんでいます。「感染」も「観戦」も音読みは「カンセン」ですが、その違いは天地の違いと言えるでしょう。同時刻に同じ場所で起こっている現実なのかと思うと、どう受け止めたらよいのか、複雑な気持ちがぬぐえません。

 オリンピックの歴史に目を転じると、1964年に開かれた前回の東京オリンピックで日本国民を熱狂の渦に巻き込んだ女子バレーボールの「東洋の魔女」を思い出す方が多いのではないでしょうか。もう57年も前のことです。日本で初めてのオリンピックは、世界に戦後復興を印象付けるものでした。まだ、戦後のかけらが残っていた時代です。「東洋の魔女」の金メダルを日本国民に授与された金メダルのように思った方も少なくなかったのではないでしょうか。

 その「東洋の魔女」です。女子バレーボールチームは、元々は大日本紡績の貝塚工場で、当時は「ニチボー貝塚」という企業チームでした。金メダルの何年か後、筆者はその「ニチボー貝塚」チームの本拠地である工場を見学したことがあります。その時の社名は「ユニチカ」に変わっていましたから「ユニチカ貝塚工場」でした。

 綿花から綿糸を製造する工場を見学したのですが、今でも鮮明に覚えているのは、「東洋の魔女」の練習場だった体育館の内壁に立てかけられていた体操で使う白いマットです。体育館は狭く「えっ、ここで練習していたチームが世界一なの」といった驚きが忘れられません。内壁に立てかけられた白いマットは、東洋の魔女の代名詞ともいえる「回転レシーブ」でころがる選手の安全を守るためのものだったのです。

 特訓に次ぐ特訓を重ねて獲得した金メダル。工場見学した時も、短時間でしたが「東洋の魔女」の後輩たちの練習を見学しました。男性監督が投じる強烈なボールを体で受け止めたり、回転して片手で拾っていたシーンは忘れることができません。

 本来の見学目的である「紡績工場」の内容より、はるかに強烈な印象を与えてくれた「東洋の魔女」の狭い練習場の白いマット。メダルを獲得したアスリートたちの「努力は嘘つかない」との発言は、まったくその通りだと思います。今になって「東洋の魔女」の白いマットには、魔女たちの努力という汗と「回転レシーブ」という技が染みついていたのだと思い、半世紀を経ても変わらないものと進化するものがあることを実感しました。 

(聖生清重)