FISPA便り「服で福をもたらす仕事」

 何の気なしに気が付いたのですが「服」と「福」は音読みだと同じ「ふく」です。そのことに特別な意味はありませんが、「漢字遊び」のような、それでいて深い意味のある詩を連想して「そうか、アパレル製品をはじめとする、いわゆるファッション製品は、幸福をもたらす産業、仕事なのか」と思い、この思い付きにひとりでほほを緩めています。

 漢字は、確かによくできています。以前にも触れたことがありますが、筆者が現役の記者だった時、ある先輩記者にこう言われたことがあります。「忙しいという漢字は『心』が『亡ぶ』と書くんだよ」。その先輩は酒癖が悪く、その上説教癖があって好きなタイプではありませんでしたが、「忙」の漢字の話は、なぜか、その後もずっと記憶に鮮明に残っています。

 詩人の吉野弘には「漢字遊び」と題して分類された詩があります。漢字に込められた、人々の思いや願いを見事に詠んでいて、時々、愛誦しています。たとえば「辞」と題した作品はこうです。

     答辞も悼辞も訓辞も世辞も(辞世も辞表も)
   修辞で固めた美辞の祝辞も
 「辞」になった言葉は「舌」に「辛い」
     追いつめられて遁辞を弄するときも

 「辞」になった言葉は「舌」に「辛い」とは、「う~ん」と黙り込むしかありません。一般人は「答辞」や「悼辞」、「訓辞」を述べる機会はあまりないでしょうが「世辞」は誰にとっても必要な場合があり、いささか「舌」に「辛い」と分かっていても使うことがあるのではないでしょうか。「舌」への「辛さ」は。世辞の内容や誰に向けたものなのかによって「強」から「弱」まで幅が広いでしょうが、少なくとも「激辛」は避けたいものです。

  詩人は人間の心理の機微を知り尽くしているのでしょう。落ち込んだ心が励まされる作品があれば、知られたくない自分の深層心理を読まれたような作品もあります。「辞」には、その人の生き方が反映される。だから「辞」になった言葉は「舌」に「辛い」のだと思います。

  詩人の洞察力の足元にも及びませんが、「漢字遊び」では「服」は「福」に通じる。だから「服」を扱う仕事は、世の人々に「福」をもたらす仕事だということができるのではないでしょうか。

  コロナ禍で幸せとは言えない時代だからこそ、多くの人に「服」で「福」をもたらしていただきたいものです。  

            (聖生清重)