FISPA便り「我々はどこへ行くのか」
パソコンを開いて、メールをチェックする際、ヤフーの画面から入るのですが、そこに毎日、「○○の日」が載っています。いつもは、そのまま、開いて目にすることはないのですが、去る6月7日は「ゴーギャンの誕生日」でしたので、早速、見てみました。ゴーギャンがタヒチで描いた絵はおおらかでゆったりした気分になれるからですが、その「題名」が忘れられないからです。
フランスの画家、ポール・ゴーギャンが南太平洋のタヒチで1897年から1898年にかけて描いた絵の題名はこうです。
我々は どこから来たのか
我々とは 何者か
我々は どこへ行くのか
随分前に、この題名を知ってから、何かことがあるたびに思い出します。自分自身の過去を振り返ったり、「今」から続く行く末に思いを馳せる時「俺って、いったい何者なのだ」と沈思し、さらに「いったい、どこへ行くのか」と考えてしまう機会が少なくありません。
ゴーギャンの「我々は…」の絵は横長で、右側の子どもと3人の人物は人生の始まり、中央の人物達は成年期、左側の人物達は死を迎えることを甘んじ、諦めている老女が描かれています。老女の足元の奇妙な白い鳥は、言葉がいかに無力かを物語っています。背景の青い像は「超越者」。ゴーギャン自身がそう書き残しているそうです。
筆者は20歳代前半の繊維記者だった時、生糸や綿糸の定期相場の市場記事を書いていました。その時、相場記者の大先輩から「ゴーギャンがタヒチに移ったのは株式売買で曲がった(損した)からだ」と聞かされたことがあります。以来、有名な画家と相場という相性が良いとは思われない関係性がおもしろく、ゴーギャンという画家を「我々は…」の題名とともに忘れることはありませんでした。
世界を見渡すと、地域紛争が絶えません。AI(人工知能)の発達でどんな世の中がやってくるのでしょう。行き場を失ったプラスチックゴミ。足元では川崎市で起こった、ひきこもりだったという大人による殺傷事件が暗い影をなげかけています。
大小さまざまなニュースを見たり、聞いたりする時、ふと、ゴーギャンの「我々は…」を考えてしまいます。ゴーギャンは、この絵を描いた後、自殺未遂を起こしたそうですが、そうした心の揺れは何だったのでしょう。
筆者にとって「我々は、どこへ行くのか」の答えは「居酒屋へ」がふさわしいようです。
(聖生清重)