FISPA便り「最後の秘境 東京藝大」

 「最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常」(新潮文庫)のタイトルと空想世界のような表紙カバーに目が留まって、早速、購入。これが実に面白い。ページをめくると、「天才たちの想像を絶する日常」が実名で紹介されていて「人間とは、何と不思議な動物なのだろう」といった驚きの連続でした。

 どこから読んでも、驚き、衝撃、唖然、呆然、常識外、けた外れといった言葉でしか説明できない藝大生の生態が満載です。しかも、登場人物は男女、年齢の差はなく、誰もが、真剣で、純粋で、情熱的で実に魅力的なのです。

 ある音楽環境創造科の学生。2014年の「国際口笛大会」成人部門のグランドチャンピオンで「藝大に口笛で入った最初で最後の男」になるだろうと言われているそうです。口笛にはいろいろな奏法があるようです。例えば、下唇系舌ウォーブリングという奏法では、吹きながら舌を下唇の内側につけたり離したりすることで、舌を止めずに高速で音を切り替えることができるそうです。目標の一つは「クラシック音楽に口笛を取り入れること」。

 著者の二宮敦人さんの妻も藝大生。藝大生の妻とその母、妻の妹、妻の従姉妹の4人で海外旅行に行った時のこと。ルーブル美術館の中の一角で妻の藝大生が全然動かなくなってしまったのです。踊り場に置いてあった「サモトラケのニケ」という彫像をずっと見ていて、同行者が飽きてベンチで昼寝し始める中、ただ一心不乱に、えんえん5時間以上も見続けたそうです。

 楽器のせいで体が歪んで一人前という器楽科生、40時間ぶっ続けで絵を描いて幸せという日本画科生などなど、登場人物は、天才と呼ぶにふさわしい。

   東京藝大の入試は最難関で、入試倍率は東大の約3倍。著者の妻は彫刻科ですが、彫刻を志した時、先生に「うん、君には才能があると思うけど、3浪は必要だろうね」と言われたそうです。東京藝大には美術学部(美校)と音楽学部(音校)がありますが「美校の現役合格率は約2割、平均浪人年数が2.5年。5浪、6浪もいて、年齢が10歳近く離れていることもざらだそうです。その一方では、卒業後の行方不明者が多発しているとの噂もあるのだそうです。

   そんなカオスの住人は、変人のようですが、皆、魅力にあふれています。著者はあとがきでこう述べています。「(この仕事を通じて)たくさんの驚きがありました。僕にとってはあまりにも常識外、という衝撃です。ただ、本当の驚きはそこではありません。異世界人に思える相手であっても、一段掘ってみると何ら変わらぬ隣人である。そんなことに気づけたのは、僕にとって素敵な経験になりました」。

   常識外と思える藝大生から「人間にとって真に大事なことは何か」を教わったような気がしました。凡人である筆者の感想です。     

 (聖生清重)