FISPA便り「ある刺繍メーカーのやる気」
久しぶりに会った、ある産地の刺繍メーカーの経営者、ここではSさんとしますが、実に意気軒高でした。コロナ禍で売り上げが激減して、先行きがまったく読めない厳しい状況が続いていたそうですが、最近は新しいビジネスが好調で、加えて、主業の一般アパレル製品やユニフォームへの刺繍の依頼も増加傾向を続けている。その結果、売り上げはコロナ前を上回っている、と近況を笑顔で話していました。
経営環境は、繊維ファッション産業だけでなく、あらゆる産業、また、家計でもエネルギーや諸物価の高騰で厳しさが増しています。しかし、コロナ感染状況の落ち着きから、社会経済活動が活発になり、明るい話題も増えています。ファッション業界でも厳しさは続いているものの、この間、進めた脱バーゲンセールとも言える改革の効果もあって業績を回復する動きが目立つようになっています。
そんな中での、くだんの刺繍メーカーです。Sさんの笑顔の理由のひとつは、新規ビジネスです。聞くと、神社から神事に使用する幕類の新調や修復の依頼が飛び込んできたとのことでした。そうした製品は、機械生産ではなく、人の手に依存する手刺繍でないとできないため、注文をこなすことができるメーカーは限られているようです。しかも、そうした注文は結構な金額で、ビジネスとしても魅力的だと言っていました。
その刺繍メーカーは、婚礼衣装が得意で、そのため「手刺繍」の能力、つまりは手先が器用な熟練者を確保し、加えて経営者であるSさん自らがデザインを担当しているため、神社からの注文に応えることができるというわけです。一方では、主業の一般アパレル製品やユニフォームの刺繍依頼も増加してきており、新旧のビジネスがうまくかみ合っています。
この話を聞いて、思い出したことがあります。Sさんは、かねて、下請け賃加工の刺繍メーカーから自立しようと、脱・下請け賃加工に努めてきました。若者向けブルゾンのファクトリーブランドを開発、販売したこともあります。自社の生産キャパシティーでは規模が小さくて受けられない数量の発注をこなすため、同業者に呼びかけ、生産キャパシティーを増やす試みにも挑戦したことがあります。そうした挑戦の過去です。
ファクトリーブランド事業も同業者と生産能力を一体化して大量の発注に応じるための連携の試みも成功したわけではありません。しかし、そうした失敗にもめげずに地道に自立を目指す中で、コロナ前の売り上げを上回るようなったのです。その原動力はSさんの「やる気」だと思いました。
(聖生清重)